アーティストの必要性
日本(いや世界、いや都会は)はどんどん脳化しているんですと・・・思考は現実化するってことかな。
あとは有機的ではないってことか。
たしかに世界は直角ばかりだ。
僕が20代の頃に日本はヤバいと言われていた記憶がある、もう30年である。
確かにヤバい。
多分バブルと共に泡となり"何"かが消えてしまったのだろうな。
何かとは主に腹文化と芸術性じゃなかろうか。
日本は表の顔と裏の顔がはっきりしすぎているほどくっきりしてるし、さらには悲しいかな腹黒い。2ch(今は5ch?)が出来たのは必然だな。
そりゃネガティブに振れたら、いわずもがコトは面倒になるのは想像容易である。
だって正直に向き合ってないのだから。
腹の文化だけに腹の言葉は多い、ポジティブワードもネガティヴワードも沢山ある。
脳言葉に移行しはじめてからカオナシならぬハラナシになってしまったのではなかろうか、そしてハラナシはいまもなお彷徨い中である。
そしてさらには同調圧力という強力な壁が立ちはだかり、ほんの少しの圧がじんわりじんわり大量にのしかかる国。
みんなと同じじゃないとだめー!・・・これって芸術という分野においてだめだし、通用しないし、通用してはならないこと。
そりゃアートは潰されていくわな。
昔から思っていたけどこの国に足りないの圧倒的にアートの分野だと思うんだよな。
この国はアートを削れば削るだけ衰退すると思っている、実際そうだ。
*ここで言うアートとはなにも絵とか彫刻とか芸術作品だけでなく、生き方に近い。
もうそろそろみんな、腹を見直すこと、腹で生きることをしないと、大災害でもやってきた時にぁ生きる智慧が降りてこんと思うのだよ。
光ばかりでなく闇も見ること大事大事。
テレビはいい風な嘘と怖がらせることしか流さないからね。
テレビを捨て自然を歩こう。
ではでは良い1日を。
OSHOの言葉をどうぞ。
昼間光が見えたってどこがすごい?
美しさは最も暗い夜
目がそこに隠された昼を見られるほどに暗間(やみま)にならされることにある
最も暗い夜にさえ朝を見ることができるとき
そこには美しさがあるものだ
そのときあなたは達している
最も低いところにありながら最も高いものを見ることができ
地獄にあってさえ天国を生み出すことができるとき
そのときこそあなたは生のアーティストだ
そしてタントラはあなたを
その生のアーティストに仕立て上げようとする
否定人間ではなく
偉大なるイエスマンに一
受け容れてごらん
だんだんとあなたは受け容れれば受け容れるほど
欲望が少なくなってゆくのを感じるだろ
もし受け容れたら
どうして欲望がそこに持ちこたえられよう?
この瞬間において
何がどうなっていようと、あなたがそれを受け容れる
そうすればそこにはほかの何を求めるどんな動きもない
それを生きるのだ
瞬間から瞬間へと
深い受容のもとに成長する
どんな目標もなく
どこへ行くという欲望も何か違うものになったり
誰か違う人になったりという欲望もなく一
どんな覚者よりも
日本という国はとても特殊だ。
それを日本人という人たちがあまり価値を重んじていないというところも不思議だ。
我々は外から何だかんだと占領されていないから自然が物凄く豊かなのも、神社仏閣が数多く守られていることも、当たり前としてしまっていて、価値をものすごく上げているかというとそうでも無いという不思議。
どの国も作りえない数多くの世界クオリティをたくさん持っているのに、それも当たり前のように、むしろ価値低めに扱い、また、それほど世界進出には興味なく、国内で回しているってという不思議。
そんな特殊な日本に住んでいて、西洋文化が蔓延しすぎているからこそ生きづらいんだろうなとか思ったりしている。
もう日本人目覚めようぜ。我々はまじすごいんだから。
その中でもアニメは世界最高峰であろう。
今朝YouTubeで宮崎駿のドキュメンタリーが流れてきてたから何の気なしに観てみたら、もの凄いことをビデオの前で平気で言っている。
今は切り抜きばかりで短く面白く無い動画がダダ漏れされているが、昔のドキュメンタリー動画はゆったりときちんと作られていて貴重だ。ただこんな作り方は時代錯誤ということもわかっているしもうこんなドキュメンタリーを作る人ももう出てこないだろう。
宮崎駿氏はある種悟っていると思うし、覚者であるし、半端ない努力家で、遊び人っていうことは間違い無いだろう。覚者としては最高の条件である。
話は逸れるけど、僕の絵の先生だった知る人ぞ知る長沢セツも完全なる覚者だったな、言うことなすこといちいち宇宙人だったし、絵なんて神レベルのうまさだったし、彼も遊び人だった。その神の真横でデッサンをできたことは今でも一生の価値だと思っている。
この動画いちいち言ってることがすごいのでぜひご覧あれ。
今この時代になってパンチが効く言葉ばかりである。当時はきっと少し早すぎだったかもしれない。
よき休日を。
ヨーガの道は算数的タントラの道は詩的
「タントラは、魂のゆるやかな発展を信じず、突然の悟りを信じている。ヨーガはゆるやかな発展を信じる。少しずつ、一歩一歩、あなたは最終的なものへと進む。
ヨーガはとても算数的だ——あなたが犯してきた罪のために、あなたは徳の高い行いによって、罪とのバランスを取らなければならない。あなたの口座は完全に閉鎖されなければならない……。タントラはまさに反対を言う。タントラはとても、とても詩的なアプローチであり、算数的ではない。そして、タントラは愛を信じており、数学を信じていない——タントラは突然の悟りを信じている」
非常に詩的である。
タントラって詩的故にわかりづらいところがある。
さらには現代においてこういう詩的表現は流行らないのかもしれない。
でも、それをわかりやすくするってことは何か違う気がする。
だって詩だから・・・自分の創造性を膨らませられるもの・・・計算できないものにゆだねること・・・
人生はよく川に例えられますが川の流れは読めない。海の波も読めない、そのコントロールできないものを、上手く流れや波に乗れるようにはなる。そのためには日々川に入り、海に入ること。
成長ってある日突然やってくる。
こういう例えは現代に受けないのかな。
でもこういう世界が一つ残っていてもいい気もする。
実際のワークショップではそんな小難しいことはしません。
シンプルに楽しいことをして、現実に直面していくってとてもシンプルな働きかけ。
でも最初はいろいろ起こります。
いろいろ”練習”をやらねばいけないでしょう。
時々旅の途中で先人たちが教えてくれるでしょう。そしたら少しならって自分のやり方を見つける糧にする。そして一人で歩けるようにしていく。
大きな変革はないかもしれないけど、じんわり確実な変革は起こり得る。
ぜひ来てくださいませ。
タントラ本新刊「112の瞑想秘法の書 下」
タントラ本の新刊のご紹介。
OSHOの本は詩的なので散文に向いている。
気になったところに付箋をしておいて読み返す。
タロット的にぱらっとめくったところが今一番必要だったところだったり、
そんな読み方ができるのもOSHO本のいいところ。
しかしこんな分厚い上下巻いつ完読できるのだろう。
もう辞典的に持つしかなかろうね。
こちら以前書いた記事↓
こちら新刊↓
お楽しみあれ♪
生きるは死ぬことならば生きよ
人は死んだらどうなるかなんて考えてないで生きろってこと
生と死の瞑想会をしました。
またお盆の頃やりたいな。
【新春】1/21 , 22 Life and Death Meditation in 湘南 – Tantralife Japan
意識的に死ねたならどんなに幸せだろう
死だけが意識的になんてみんな望むけどそんなわけない。
それは”生”の積み重ね。
そんなときこんな詩が突き刺さる。
「老いていく肉体(からだ)は愛も知らずに満足かい?
喜びを誰かと分かち合うのが人生さ」
ほんとに・・・今日何度も聞きました。
それでは今日死んでもいいように、生きれますように。
良い日を。
イチロー
アメリカに支配されちゃったこの国は野球ってスポーツをやらざる終えないのだろうか、世界的に見たら野球ってそれほどメジャーなスポーツとも言えない。
昭和育ちの僕の世代は将来なりたい職業には必ず野球選手が上位に上がっていたし、実際僕も(今の僕からは想像つかないかもだけど)野球部で坊主だった。だけど、今の商売野球には全く興味がわかない。
さて、その我が国野球界が誇るイチロー選手がいます。
彼の探究心と変態性は現役時代から好きで、たまにドキュメント動画など見ていました。
今引退してYouTubeなどで高校などに訪れて野球指導をしてる動画あるんだけど。
これは下手な精神世界本を読むよりも何倍も勉強になる。
それと彼の動画から見える、身体の使い方、動き方、立ち振る舞い方、身体をどう使ってきたかの言葉の深さ、は聞く価値がある。
愛またはハートに触れる感じがある。
ジャンルは違うが、明石家さんまも同じ領域にいる気がする。
精神的世界で悟るとかと言ってることは似てるけど、彼らは悟るなど一切目指してなく、ひたすら探求、勉強、継続をしているところがいい。
ある程度経験してきた人の言葉は流石に深いし重い。
引退したからこそ聞ける言葉もある。
なかなか貴重です。
ぜひYouTubeで検索してご覧あれ。
そんなイチロー動画と朝を迎え少し涙ぐんだので日記を書いてみた。
良い1日を。