OSHOの講話の抜粋です。
昨日友人たちと恋だ、関係性だ、セックスだと、話をした。
やはり大きい関心ごとでもある。
それは多分遠くにあるようなものでものすごく近くて見えないものだからだと思う。
でも、多分この講話は一見厳しいけど、こういうことなんだと思うな。
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関係性は何か完結したもの終わったもの、閉じているものを意味する。
愛が関係性であったことはない。
愛は関わることだ。
それは常に流れ終わることのない河だ。
愛は完全に止まることを知らない。
蜜月が始まり、しかし、けして終わることはない。
それはまるである地点で始まりながらけして終わることのない物語のようだ。それは進行し続ける現象だ。
恋人たちは終わる
愛はつづく。
それは連続体だ。
それは動詞であり名詞ではない。
では、なぜ私たちは関わることの美を関係性へと引き降ろしてしますのだろう?
なぜ私たちはそんなに急ぐのだろう?
―なぜなら、関わることは不安だからだ。そして、関係性は安全だからだ。関係性には、確実さがある。
関わることは二人の見知らぬ同士の出会いだ。
たぶん一夜だけともに過ごし朝にはさようならを言うことになるかもしれない。
明日何が起こるか誰にわかるだろう?
そして私たちはそれをとても恐れそれを確かなものにしようとする。
それを予測可能なものにしたいと思う。
明日という日を私たちのアイデアに沿ったものにしたい。
それがそれ自身の表現をする自由を許すことができない。
それで、即座にすべての動詞を名詞へと引き降ろす。
女性とあるいは男性と恋に落ちるとあなたは即座に結婚することを考え始める。
それを法的な契約にする。
どうしたら法律が愛になるのかね?
法律が愛になるなぜならそこには愛がないからだ。
それはただの幻想でそしてあなたは幻想は消えるものだと知っている。
それが消えてしまう前に落ち着くのだそれが消えてしまう前に別れることが不可能になるように何かをするのだ。
OSHO