死を超越をする生き方なんて書くと壮大なんだけど・・・死は考えるべきものと思うわけです。
それは、葬儀をどうするか、とか保険をどうするかとか、いう話ではまったくない。
なかなかというかほとんどの場合、死は現実的じゃない。おまけにタブーときている。
セックスと死はタブーだ。
どういったものか、どういう感情になって、どういうふうに”それ”はくるのか、なんていうたとえそれが絵空事で空想の話しだとしても、本当は公に話し合いたいはずだろうし、話しても良いはずの話題なのに、タブーだ。
知ったかぶりしたって、いくら準備万端ですって言ったって、たとえ死に際を一度見たって、今この身体で生きている以上やはり死はわからないものだろう。
それは不気味なわからないではなく、神秘のわからないというカテゴリーなんだと思う。
昨日ビデオを見ていたらこんな話しを聞いたのです。
- どうやら死を超える秘密があるようだ!?
昔ある有名な剣士の召使いが主が留守中に仕事のミスをした。
主にとっては大きなミスと捉えた為に、主は大変激高し召使いに自分と闘うように命令する。
しかし召使いは剣の使い方はもちろん、握り方すら知らない。
しかも剣士はかなりの腕の持ち主であったそうだ。
どうやってもかなわないだろうから、召使いは死を覚悟した。
主に闘う前に自分の瞑想の師のところへ行かせてくれと嘆願し、瞑想の師のところへ別れの挨拶をしに行った。
どうやったって勝てないし、死が待っている。
しかし、瞑想の師は笑って「あなたは一生に一度でもトータルにすべてを賭けたことがあるのか?それは剣の持ち方や闘い方など関係ない、どうぜ勝てない相手だというならば、すべてをかけて闘えばよい」というアドバイスをもらう。
そうこうしているうちに民衆たちも噂を聞きつけ集ってきた。
そこで召使いはすべてのエネルギー、全生命をかけて剣士と闘った。
腕に自身のある剣士が後ずさりを始めた。
まさか自分が負けるはずもないというおごりもそうだが、この召使いの殺気に圧倒され始めた、こんな相手と闘ったことさえなかった。
ついに召使いが主である剣士を倒しあと一撃というところで、「私は長くあなたを慕ってきました、今ここであなたを殺す事は出来るが私にはできない」と伝える。
「あなたは負けを認めますか?」と問うた。
剣士はみんなの前で召使いに負けた事を認めた。
召使いは「もうあなたの召使いである必要が無くなった、私は私の道を見つけた、それもこれも、あなたがその機会を与えてくれた、それは感謝でしかない」と。
そして召使いは悟りに至るわけ。
・・・・このようにしたら死を超越した生き方が出来るのだと、友人たちにこの”秘密”を伝えなさいってOSHOが言うから、多分そうなんだろうなって思ったからブログに書いた。
「すべてを注ぎトータルに生きなさい」というメッセージが唯一死を超える生き方だと。
そうであるのであろう、そうでありたい。
生きよう。