こんにちは。
カビールです。
どこかに属したい願望と、一人でいたい願望
(これは永遠のテーマだ)
最近この属するを考えてる。
どんな素晴らしいコミュティでさえ「属す」といずれ狭く感じる。
僕らは学校というコミュニティに強制的に入れられ、いわば「つるむ」訓練を知らず知らずに洗脳を受ける。
でも、実際はというと、その中でもたった数人としか話があわず、その中で死ぬまで連れ添う他人なんて、極々僅かだろうという現実が見えるのは結構あとである。
友達はたくさんいるといいなんていうどこが出どこかわからない不明な、一見優秀な意見が幅を利かす。
そして、狭い世界に我慢してい続けると事故は起こる。
当然だ、みんな渋滞でイライラしてるんだもの。
だから自ら出ないといけない時がやって来る。
現実問題、このどこに「属す」という線引きはなかなかくっきりと行かない。
会社に属しているがそこが本当に「属したい」場所とは限らない。
というか
きっと
これは
多分
ずっとわからない。
今までの世界とも関わりつつ、新しい世界と関係を作って行く、自分はどこへ向かい、どこに属しているのか、と言う問いは一生続く。
ゆえに結婚(一般的な男女の結婚という意)という絶対的に分かり合えぬ男女、異性という他者と連れ添うことはわからないをよりわからないという理解を得るには持ってこいで、理にかなっているのかもしれない。
それと似たことで・・・
「一人で生まれ、一人で死ぬ」とよく言う。
もうそれが出来るのが当たり前のようにみんな軽々しく言う。
しかし、実社会を見渡すと、みーーーーんな孤独死は悲惨だとか、
みんなに囲まれて死にたいとか言う、反対のことを言う。
実際のところ一人で死ぬなんて思っている人は少ないし、実際は一人で死ぬことはできないことが多い。
そんななか「毎日がアルツハイマー」って映画を見た。
翻訳家でもある、監督(娘)が実の母をありのまま、ほんとにそのまんまボケゆく実母を映像として残している。
面白かった。
世の中のほとんどがこういったことは無いように隠す。
隠さないまでもあえて人様に言わない傾向がある。
ボケた両親とか、自殺している身内がいるとか、犯罪者がいるとか、
長い歴史として見ると大したことはないのだけれど。
で、この手の映画に絶賛する。
それは自分には起こらない、出来ないと思い込んでいるからか・・・知らんけど。
そのまま生きるってのは難しい。
嘘でもきらびやかに生きた方が楽であるから。
この主人公の母は映画の中でずっと「ぽっくり死にたい×2」と語っている。
じゃ、僕ら実際ぽっくりと死ねるのだろうか?
どうやってぽっくり死ぬんだろう?
実際動けなくなると本当の自分は出てくるだろう。
感情と向き合った時本当の自分は出てくるように。
その時に自分はどう言う行動に出るのだろう?
ボケる過程をどう過ごすのだろう?
ある考え方では死ぬことは「選べる」とも言っている。
僕はこれに近い考え方で選んで死にたいと思ってはいる。
そんなことをリマインドさせてくれる映画だった。
マイナーな映画であるが、面白いリアリティのある映画だと思う。
死とセックスはタブーっておかしい。
どっちも生きるのに大事なこと。
それをタブーにしたら生きるってことがタブーじゃないか。
どちらも、忘れたふり、見ないふりをしてはいけないもの。
老いはジレンマがつきまとう。
でも・・・
やはり瞑想していくしかない。
瞑想をして、生きる理解をして、死ぬ理解をして生きて行く以外無い気がする。
それを修行としてはやらない。
それを楽しみながら老いて行くという。
新しい時代がやって来る気がする。
(悪)じーじ(悪)ばーば
遊ぼうぜ。
LOVE