僕はあいにくというか、おかげさまと言いますか・・・
批判も、嫉妬も、嫌悪も、投影も、
また反対に・・・
評価も、賞賛も、恋心もw
受けます。
そのほとんどが立場がそうさせるものでしょう。
多くの場合僕と言う人間を知らないで「ぱっと見」で判断するからです。
俗にいう投影です。
でも「ぱっと見」はある意味正しいので、その人が見たものは正しいんだと思います。
これは多かれ少なかれ人間をやっていたら誰しも当てはまることです。
僕の場合は小さい世界ではあるけれど、前に出て、何かする人なので、人より少しだけそういった機会が多いかもしれません。
ただいっとき、見えるだけ。。。
ただそれだけです。
「見える」だけで、見たいと思うものを「見てる」だけ。
真実は何かなんてわからない。
僕はそこに真を置きます。
真は固定したものではなく動き流れるものだと思っています。
自然は絶対的に同じ瞬間なんてないんだもの。
だからネガティブもポジティブも信用はしていません。
嫉妬もよく受けます。
(もちろん嫉妬もしますけど)
される嫉妬は僕には100%関係ありません。
嫉妬した人が勝手に「物語」を作り嫉妬しているだけです。
嫉妬のカラクリはこうです。
ある場面を現実に見たり聞いたりしたとします。
嫉妬はその次から発動します。
言動として、意識的、無意識的に。
それは仮想の頭の中で発動します。
そして自分の思い描くありとあらゆるクリエイティビティを活用し「物語」を書いていきます。
しかし現実の嫉妬は手強いので、自分がストリーテラーにも関わらずその「物語」に疲れ始めます(恥じめます)そして他人のところに回し解決してもらおうとします。
解決と言ったって、放り投げたり、当てたりってことです。
これが問題の第1歩であります。
この1歩を踏んでしまったら、情ある人間は修正難しくなります。
いわゆる深い地獄に行きます。その先はもうご存知だと思います。
要するに受け皿がないのです(と思っているのです)感情っていう情は。
怒りや悲しも同様です。
情が濃い人間が嫉妬するのです。情が濃いってことはエネルギーも濃いってことです。
それを他に使えるといいのですが、人間様は情ってやつが好きなのです。
嫉妬を観れた時、その嫉妬に燃やしてきたエネルギーは別のところまたは解放に向かいます。
濃い味からさっぱり味に変化することに驚くでしょう。
悲しい時、誰かに聞いて欲しい・・・
誰かに慰めて欲しいと思う・・・
これを敏感に感じ盗み、それを利用する者がいます。
怒っている時・・・
何かにぶつける・・・人にぶつける・・・
この心理を用い戦争をする者もいます。
人間って何かしらやらかすものですね。
じゃどうしたらいいか?
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一人になりましょう!
一人の時間を可能な限り多く作りましょう!
一人の時間こそが多くをリペアしてくれますから。
そんな時は冬の湘南へ
ここのところ晴天続きでえぐく美しい日々であります。
今日もう1日お元気で!