JOY of LIFE!

タントラのカビールのブログ タントラライフジャパン代表

女性に惹かれ、同性に惹かれない

女性には惹かれるが男性には惹かれないですが・・・」と言う質問にOSHOが答えます。

*後半に質疑応答文載せてます。

 

あくまでも個人的観測だけど、結構ここに、結構なことが集約されていて、性の幼稚さに繋がるものもあるんではなかろうかという気がしている。

 

By the way...Hという言葉で濁すなんてその代表だ。

きちんとセックスと言いましょう・・・ボソ・・・w

 

性の幼稚って・・・

 

思考から派生されるもの。

思考の中で繰り広げられた世界の中に留まっていること。

 

ゆえに男性の得意な思考分野であり、今までは男性優位で性に関するすることは押し進まれてきたように思う。

 

しかし残念ながら、そんな時代は終わった。

 

とうとう終わった。

 

ついに終わった。

 

あともう少し時間かかるだろうけど、今やもうリムーバーで剥がされた状態で、あとは拭くだけであろうな。

 

だから昨今性犯罪の取りざたられ方を見ればわかる。もう臨界点だ。

 

関連記事↓

kabr1218jp.hatenablog.jp

 

幼稚化はおそらく・・・

 

同性と繋がる前に(これは誰かと友達になるとかそういうことでなく、自分自身、自分の内なることのこと)異性と繋がることを先に憶えて、同性とのことをケアしてこなかったのが要因の一つはあるだろうなと思っている。(もちろんそれだけではない)

 

成長過程において、同性との関係を向き合うことをトライできずに、外側の異性と先に繋がり、成人する。

でもこれ至極ノーマルだと思う。

 

そこしかないくらいな入り口だし、それでいいと思うし、むしろそこ(多くの場合セクシャル)じゃないところから繋がるのなんて難しいんじゃなかろうか。

 

フロイトさん(だっけかな)行動の多くは性的興味が発露であると言っているように。性的な興味から動くのは至極ノーマルだよね。

 

それ(関係性)はおそらく「自分」「自分で在る」「一人在る」ということの練習に過ぎない。そんな気がする。カップルで居ることは鍛錬ですね。

 

なので、カップルのことはしばらく先に置いておいて。

タントラではまず「自分」を、まず自身を愛して行く過程を練習する。

 

まず「自分」からはじめる。

 

  

昨今、世の女性たちは女性性のワークショップや精神性のワークへこぞって参加している。それはもうすごい数だ。

男性に用がなくなったのではなく、自分自身に純粋に興味があるんだと思う。

 

女性たちの間で流行ったものは、少し遅れて男性たちに火がつく。

しかしこの精神性、感情領域のことに関しては、男性はおそらく少し腰が引けている人が多い気がする。

 

なんでって・・・自分が壊れちゃうし、エゴが許さないから。

 

でも近いうち爆発が起こるだろうと思う。

 

男性たちは太古から修行はしてきた。

多分何かに打ち込む精神力とか、忍耐とかって、女性には備えてない能力だと思う。

ていうか女性たちはその必要性を感じていないだろうけどw

 

だから武道や、オタク、コレクターなどなどの領域は男ばっかだw

これらは基本的に1人で楽しめるからだ。関わらなくても済むからだ。

女性は横を大事にするから関わることにはそれほど恐怖がないと思うので、男性とは少し違う。

 

でも今時代も変わり、この辺の性差もそれほどなくなりつつもあるのだろう。

 

今は修行の時代でもない。

スマホである程度のことはわかっちゃう時代になったw

 

だから近いうち男性たちがこの手のワークなどのにこぞって参加し始めるんじゃないかと見てるんだけどなぁ(希望的観測)

 

そんなわけで、僕のライフワークのタントラでは人と相対しながら、関わりながら、ワークを進めて行く。男性女性関係なく面白いワークだと思う。

 

何より元気になる。

 

よかったら・・・以下よりイベントページへどうぞ・・・今週末から関西です!

 

www.tantralife.jp

  

 以下質疑応答の文章です。ご参考までに・・・

 

自分を振り返ってみると、私はたいてい女性たちに惹かれ、男性に深く惹かれることはめったにありません。そのことがちょっと気になっています。

 セックスは原罪と呼ばれてきた。それは最初のものでも罪でもない。アダムとイブは知恵の木の果実を食べるずっと前からセックスをしていたし、エデンの園の他のすべての動物たちもセックスをしていた。

知恵の木の果実を食べた後に起こった唯一のことは気づきだった。

彼らはそのことを意識するようになった。

そしてそのことを意識するようになったことで、彼らは恥ずかしくなった。

どうして彼らは恥ずかしくなったのか?

どこからこの羞恥心はやってきたのか?

彼らが恥ずかしくなったのは、自分たちが他の動物たちと同じように振る舞っているのを知ったからだ。

だが、他の動物たちと同じように振る舞うことのどこがいけないのか?

人間も動物だ。

だが、自我が入ってくる。

知恵の木の果実は自我をつくりだした。

それは優越感をつくりだした、優れているという考えを。

「自分たちは優れている人間だ。この哀れな動物たち、彼らならなにかをやっても許してもらえる。だが、自分たちは許されない。これは自分たちの尊厳に劣ることなのだ」

セックスは自然界のとても基本的な活動なので、人間の自我はそれから逃れようとしはじめた。

あなたに覚えておいてほしい最初のことは、セックスは自然だということだ。

それから逃れるためにいかなる努力をしなくてもいい……あなたがそれを超越する瞬間がやってくることを、私は知っているが、それはまったく別のことだ。

あなたは自分の努力によって、それから逃れられるのではない。

それから逃れようとしたら、あなたは倒錯の犠牲者になってしまうだろう。

何世紀にもわたってセックスから逃れようとしてきたために、人間は多くの種類の倒錯をつくりだした。

異性愛に恵まれない人たちがいるために、同性愛が起こってきた。

同性愛が宗教的現象として修道院で誕生したのは、私たちが修道士たちを一箇所にいっしょに住むように、修道女たちを一箇所に住むように強制し、彼らを巨大な壁で隔ててしまったからだ。

同性愛は起こらざるをえない。それは修道院と軍隊でだけ起こる、というのも、この二箇所では、私たちは男性と女性が混じり合うのを許さないからだ。

あるいは、それは少年や少女の寄宿舎で起こる。

そこでも私たちは彼らが混じり合うことを許さない。

同性愛という現象全体はこの愚かしい教育全体の副産物だ。

私たちが男性と女性が自然に出会うのを許した日、同性愛は世界から消え失せてしまうだろう。

まさに子ども時代から、私たちは彼らを分けはじめる。

ひとりの少年が少女たちと遊んでいると、私たちは彼を非難する。

「なにをしているんだ? めめしくないか? 君は男の子だぞ、君は男なんだぞ! 男らしくして、女の子たちと遊んではいけない!」

少年が人形と遊んでいると、私たちはすぐに彼を非難する。

「これは女の子のすることだ」

女の子が木に登ろうとしていると、私たちはすぐに彼女を止める。

「そんなことをしてはだめよ。女らしくないわ」

女の子が言うことを聞かず、反抗的なら、彼女はおてんばと呼ばれる。

彼女は評判がよくない。私たちはこういった醜い区別をつくりはじめる。

女の子たちが木登りを楽しむ。

それはとてもすばらしい経験だ。

そして人形と遊ぶことのどこがいけない?

男の子が人形をもっていたってかまわない、なぜなら、彼は人生でいずれ人形と出会うことになるが、そのとき、彼はどうしたらいいのかわからなくなってしまう!

(まだ続くけど・・・この辺で)