8月7〜11日にタントラトレーニングが終了しました。
とてもとても美しかった・・・ と言うと何か決まり文句のある広告のようだけど、 でも「美しかった」なんだよなぁ。
じゃ、どんなふうに美しいのか?言葉にするのに時間を要する。
インスタントに出てくる言葉はあまり言いたくないし、だから体験しに来てくださいって言う。
訊かれた方も聞く方も言葉ではうまく伝わらないことてあると思う。言いたい人はうまく言おうとするけど、聞きたい人は聞きたいことだけ聞くし、なんでも言えばいいってものでもないし。
嘘ついて隠す嘘じゃない秘密って時に宝となるから。
だからタントラってオープンシークレットって言ったりする。
だからと言ってわかってもらわくていいとか意固地にもなっておら ず、常に言語化は試みてる。
今の時代なんでもわかった風で開示してなんぼみたいな風潮があるし、コピーが多く出回るし、タントラってささやきの伝授っていわれるくらい、 耳元で囁かないと聞こえないし、キチンと聞こえたとしても、 それを実践できるようになるには時間もかかるし、だからお手軽に 流行っているからと動画とかでさらっと言ってわかったらお安いものだ けど・・・動画は僕自身苦手ってのもあるけど・・・。
でもこういうわけわからんワークショップが存在していたっていい じゃないかって思ってる・・・開き直りじゃなく。
だからいつも、タントラっていうワークはなんなんだろう?どんな 仕組みがこのワークには組み込まれているのだろう? 誰が仕組んでいるんだろう、とかって思ってしまう。
それくらい人間ってのはややこしいと同時に大変な面白さがある。
だからタントラは人間ワークなのだ。
テレビや情報が外から入って来なかった時代の人たちはきっと瞑想 は自然なもので、生き方も強烈で( 生死をかけざるおえないような) でも人としての営みはゆったりしていたんだろうと思う。
そもそも人はきっともっとゆったりしてて、個性があって、 右とか左とか、障害とか、肌の色とか関係なくて、 ユニークな生き物だろうに。
タントラってそんな”感じ”と似ている。
喜びとか、難しさとか、いろんなユニークを受け入れるから自分というユニークさにくつろげる。
現代人は思考が優先で占有されてしまったから”そこ” にもどるのは大変な作業になってしまっているけど。もともと我々 が持った自然の姿がタントラで出会える気がする。
さらには、 思考の言ってることなんて単なるゴミだってわかっていても、 思考に頼って生きるし、思考はもう「わかってる」 状態が好きだからそれが自分だと同一化する、早々に理解してしまった方が楽だから。
今の社会で起こっていることはいわば自分の頭の中で起こる ことと同じであるわけで。
人なんてそんなにすぐには変わらないから急がず行こう。
美しいという言葉は、この写真の富士山( トレーニング期間中に現れた赤富士) と同様ではあるんだろうけ、 タントラで起こる美しさは、質の違った美しさで、 人間のユニークさと複雑さとか、いろんなものが絡み合うなかで、 人間がもがく姿や、喜び笑う姿、泣く姿、それらを突破した姿、 そんな姿たちが美しいって以外表現できない。
活力とか、生命エネルギーに目覚めますなんて簡単にいうし、 僕も言っちゃうけど、それらを体験する時の怖さ、震えや、 難しさ、持ちきれないほどの喜び、 なんてどう言葉で言えばいいのだろう?
どこにも属さない全くもって自由な存在が愛なのではなかろう かなんて思ったするし、ワークの中でちらちら垣間見れたり、掴めそうで掴めない憎 いやつをどう言葉で捉えればいいのだろう?
それがタントラにあるかもよ?ってことは言えるけど。
このトレーニングも3回目になり、どんどん、 深く進む速度が上がって進化している気がしている。 それは場自体が成長して生き物のようなものなのかもしれない。