先日このブログを書いたのだけれど。。。
誤解されると良くないので少し細かめに、言い訳wを書き加えました。
僕は何もいいセックスを、素晴らしいセックスを、提唱とか啓発したいわけではなくて・・・もちろんそうであればいいとは思っている。
基本人様のベット事情は人それぞれが楽しみ工夫すりゃいいというスタンスです。
セックスが、性が、当たり前で、ご飯食べるみたいに、シャワー浴びてるみたいに、洋服着替える新鮮さのように、区切られたものじゃなく、核爆弾のようなエネルギー発信地で、生活の延長で・・・なんて風になったらいいなと思っている。
僕がやっているタントラのグループではそういう感覚を大事にしている。
だから、疑問なんです・・・人それぞれにそれぞれの喜びである「オーガズム」を教えられる風なことを言う人が稀にいるけど、どうやって教えるのだろう?と。
オーガズムをセックスだけのものっていうアイデアを捨てることをお勧めします。
ダンスや瞑想でのオーガズムを得れるようになると人生変わりますから。
そもそも人は人に上から押し付けるかのように「喜び」というものを教えられるんだろうか?
その人その人が自分の身体の内側から沸き起こる「喜び」を感じたら(こうして言葉にすると陳腐になるけど)それでいいと思うわけです。
導くということが仮に出来るのであれば、行き先は「喜び」だろうし、だとしたら本質的には他者は必要ない領域だろうし、そもそも「人知」では導けないのではないだろうかと思っている、きっかけは作れるだろうけど。
セックスの話はあーだこーだと、ソコソコの経験値があれば、できるかもしれないけれど、人様にこうして「あーしてこーしてやってください」なんてやってしまったら、エゴのばらまきでしかない。
世にはずる賢いやつもいることを知っている。
自分の欲望を満たすために、人からのテクニックやアイデアを自分のものとし、いっぱしのことを書き上げ、それでは私目が「教えてせんじよう」と。
特に男性で偉そうに女性の体のことを知ったように語ってる輩がいるが、どう頑張って、どう研究して、どう切り開いて解剖しても、絶対に異性の体はわからないし、体感は得られないわけで、これ至極至極当たり前なんだけど・・・なぜだか、男性は教えたがる。
もちろん逆も然りで、女性は男性の体は理解体感はできない。
これは人類の永遠なる真理なるジレンマ。
男である僕もその傾向を持っている。
だからこのエゴトリップにはすごくすごく気をつけたいと思っているし、気をつけていることの一つです。
もちろん僕もセックスのことは多く話すけど、それは入り口だからで、目的地はそこじゃないからで、入り口の話をしないことには目的地の話にも行かないし、できないから。
でも、この意図はきっと伝わらない。
これはしょうがない。
だから誤解も承知の上で「やつはセックスの話ばっかしてる」って思われるのも承知で書いている。
セックスの話って公に向けて話をするのって案外根性がいることで。
そういう意味でも先のたとえそれが自分の欲望を満たすためということが無意識で見えていないとしても、頑張ってらっしゃるなという意味では尊敬はしている。
なぜなら全人類のタブーであり、各人の刷り込みがあり、闇があり、個個の感じ方が違うのにも関わらず、均一した考え方(のようなもの)があって、さも、それがソーシャルスタンダードみたくなっているし、そもそも人とそんなこと話すなんて下品みたいなムードもあったり・・・・なかなか根強い意識が残っている。
根性というのは集合意識からのアタックとか、声なき批判、妬み、嫉妬、見下し、そういうことエナジーアタックから身を守るってこと。
僕の場合はなぜ、そういう状況でもセックスのことを書いたり、ずっとそういった噂が絶えないタントラというワークに関わり続けられているかというと、セックスはセックスだけの小さい世界じゃないということが、タントラによってほぼほぼ確信出来たという経験をしたからで、その先にある、呼び方、感じ方は、人それぞれだと思うけど、それを「瞑想」と言ったり、「静けさ」と言ったり、「宇宙」って呼ぶ人もいるかもしれないけど、そういう「探求」の行為だと確信しているから。
だから何か言われても自己犠牲してでも書けるんだと思われる(知らんけど)
さて、ぼくはタントラをやっています、そして普段日常生活においては・・・いわゆるよくありがちな西洋的タントラのこんな雰囲気で・・・・
*写真は借り物です。
生きているわけでは全くなくて。
こんな風な”タントラ”な雰囲気の日常生活を送っているわけではありません。
と同時に必要性も感じていない。
さらにここ日本では、西洋とは住宅事情も生活事情も大きく異なり、そして畳は素晴らしいのだ(畳で生活してないけども)
このコロナでこの辺もよーーく見えてきている。
各国が自国の素晴らしさを再認識しているだろうこのコロナ時代。
西洋主導の生活様式への憧れや、西洋から入ってくるセラピーだったり、そういう見方を見せられてきた、または、求められてきた、このアジアの片隅に住む者として、冷めてしまっている自分がいる。
しかし西洋からは多くを学んだし、これからも学ぶところは多いのは変わらないだろう。
でも我ら日本人の瞑想性、静けさ、禅の国であるということを忘れてはならない。
とはいえ、こうした西洋式タントリックな雰囲気は大好きだし、求めているし、タントラのグループで生まれてくるエネルギーを愛してやまないのであります。
ただそれは決して雰囲気だけじゃない。
そこに集ってくる人々のエネルギーによってタントラのリアルな、生のエネルギーのうねりが生まれる場を愛している。
そこはちょっとした異空間に変わるわけだけど、それを日常生活と繋げて、持ち帰ったら、どこでもタントリックになりうると思っている。
それが渋谷の街の中だろうと、場末の駅だろうと、畳の部屋だろうと。
要するにその人自身が変われば場所はほぼ関係がない。
でも・・・
グループを終わって日常生活に戻ったとき、グループでは、起きたことが日常生活に戻るとできなくなってしまうって声も聞く。
それはノーマルな現象で、さほど問題ではなかろう、と思ってる。
なぜなら・・・
グループ(ワークショップ)で体験したことを繋げる練習のために、日常生活があるとしたら、それはまたグループ(ワークショップ)から見たら別の異空間であるわけで。
では日常という異空間が存在しなければ、そういう気づきは起きないこととなる。
要するに差異による気づきが起こったのがグループ(ワークショップ)であるならば、日常生活はそれを生かす場であるとうこと。その逆でも同じです。
ちとややこしいけど・・・同じという理解が来るには時間がかかるかもしれないけど、多分そういうことだと思うのです。
それは雰囲気やムードとかじゃまったくなくて、在り方に対する関わり方だと思う。
だから難しいのだ。
だからこそやるのだ。
一見刺激的見えるグループが日常生活になるのであれば、それが日常となるわけで、華やかさや刺激が退屈さへと変わるのはどう見ても明らか・・・ってことは前のブログにも書いた。
だからどこにいても自分は変わらないという意識と練習が大事になってくる。
で、じゃどうやってに戻ると・・・
早くタントラのグループを行えますようにってことなんだけど・・・
最近「家でするタントラ瞑想シリーズ」というのを書きました。
このシリーズはコロナ収束までたまに上げていこうと思っています。
で「家でするシリーズ」実践版を・・・
『 TANTRA in the Room』という形で短い時間でのZOOMでワークやろうと思っております。
近いうちまたここで告知します。
ではまた。