そんなもんあるかーっと老いに対して無抵抗を装いたいが、人間そうもいかない。
1年くらい前に腰を少し痛めた時があって、どこかの施設の入口にある靴べらを使ったんだけど、そしたら「なんて楽なんだっーー」って感動したわけ。
で、しばらくどこかへいくと靴べらを探して使うようになっていった。でも家に買ってまで置いておこうとは思わなかったから、どこかへ行くと出入り口にかけてある靴べらを使うようになって数ヶ月が過ぎた。
今度は何が起きるかというと靴べらを使わずして靴を履くことが困難になるのだ!さらには腰が固くなっているような気にさえ(いや実際なるだろう)なって来た。
でもまだその時点では靴べらと腰痛の関連が繋がってなかった。
ふとしたとき、気づきがやってきた。
あーこうやって老人たちは良かれ悪かれで殺されていくんだなと(ちょっとこの靴べらのケースは大袈裟だけど)思ったものだ。
それから靴べらを使わなくなったら靴履くのが大変な身体になっていた。
かがなければいけないし、時に片足で立って踵を入れなくてはいけないし。
しばらくリハビリが必要だった、靴べら使わないようになったら当然だけど腰の不快もなくなったし筋力も戻った。
ってことが僕に起きたわけです。
楽がいいことばかりじゃないってこと。何にでもこれは言い換えられます。
僕たちは日に日に「死」に向かっています。
ここ日本では特に状態を見ずして、下の世代は上をケアしようとしてしまいます。
僕はこれを美しいとは思わない。
足ひきづっていたってその人なりに歩き方を習得している時かもしれないところを、お節介に手を差し伸べたら、親切をむげにもできないからと、ヘルプを受け取ってしまうこと、それが逆にトレーニングの邪魔になってしまっているなんてこともあるかもしれないんだから。
そうやって上の世代は下に殺される・・・とまでは言わないけどさ。
ここ最近は特に下は上の世代を舐め過ぎてる。
やれマウントだっつって叩かれるばっかりで、まぁマウントする方も悪いけども。
静かで威厳ある上がいなくなった分うるさい下が出て来たのかな。
またはうるさい下が出て来た分うるさい上がいなくなったのか。
知らんけど。
最後の最後の息の根が尽きるまで自分の身体と向き合っていたい。
健康寿命が長い方がいいというが、寿命などどうでもいい。
もう動けないなって時が来るまで人間ってのは知的にも動的にも動いておいた方がいいよなぁ・・・そういう意味での健康寿命は長い方がいい。
なんて呟きでした。
今日も1日お元気で。